さらに詳しいプロフィール

(かなり長文です。1万字以上あります。)

1978年生まれ。

・小学生 勉強も運動もまったくダメ。当然,中学受験失敗。
・中学生 ちょっとだけ勉強を頑張るようになる。でも,高校受験失敗。
・高校生 頑張りすぎて病む。拒食・鬱・不登校。やっぱり,大学受験失敗。
・大学生 卒業間近になって,好きなことだけでして生きようと決意。
・卒業後 大学院に行く資金がなく,予備校講師に。
・現在 人気講師といっていただけるようになりました。

✔️ 幼少期

幼稚園のお遊戯会で台詞を覚えられず,「自分は暗記が苦手」をうっすら認識。

新小1の3月に「右頭蓋骨陥没骨折」で生死を彷徨う。

家族のおかげで助かりました。

「頭の傷が完治するまでは運動は避けるべき」という医者の言葉で,ファミコンを始める。

学校休んでゲームをするほどになり,結果,勉強は全くやらず。

実家は会社を経営していた。1人で過ごす時間が長かった。寂しかったので猫を飼う。
生活の中心は「猫」と「ゲーム」に。

朝から晩まで親がいなかったことも手伝い,勉強習慣どころか,生活習慣も身に付かず。。。ほぼ猫と同じ生活。寝るのとゲームが仕事。

テスト勉強のやり方が分からない。というか,勉強のやり方が分からない。いや,暗記とはそもそもどういうものなのかが分からない。教科書を3行くらい読んで,何をすることが勉強なのか?が分からず,テスト勉強を終える。そのまま,小学生高学年になる。

ゲームは職人的に“身体”で覚えていたから問題ではなかった。

知らないうちに(無意識的に)身に付けることはできても,「意識的に覚える」の意味がわからず。。。「『結果的に』覚える」ことが出来ても,「『意識的に』覚える」という作業はしっかりとした練習・訓練が必要,ということをのちに実感。

小5か小6の時,算数の授業で100×100 = 100万と答えて,「今日で友達やめるね」と言う人たちが数人出現。

小6時点で「九九」が全部言えないことがヤバいことだと気づく。。。

学校からは「社会生活に支障きたすかもしれない」と言われたとか,言われなかったとか。

それでも,小3からやっていたボーイスカウト(カブとボーイ)に随分と救われる。Cちゃんには東京に行ってもだいぶ支えられた。感謝。元気でやっていますか?

12歳のとき,新潟妙高の日本ジャンボリーに鼓笛隊(スネアドラム担当。トランペットは下手すぎて却下)として参加。

小6の夏休み(?)に友人が中学受験に誘ってくれた(学生時代の記憶が全般的に曖昧。誘ってくれたのではなく「中学受験するんだ」って言っただけだったかもしれない。あまりに馬鹿すぎて,その言葉の意味・文脈さえ理解できていなかった可能性は排除できない。でも,Hくん,感謝。)。

こんなに頭悪い僕に声を掛けてくれた,ということが凄く嬉しかった。(勘違いかもしれないけど)

ちなみに・・・
もしあなたが小6で「九九」が全部言えているなら,完全に私より優秀です。

✔️ 「勘違い中学受験」を決意。

小6の9月のある日(だったと思う)。「受験したいんだけど」。。。

親は理解不能。。。

いきなり何を言い始めたんだ。。。

小6の10月から塾探し。しかし,こんな輩を受け入れてくれる塾は見つからない。だって九九ができないんですもの。

しかし,とある塾がお情けで特別に入れてくれる。感謝。

月火水
塾に3~4時間。分からないなりに椅子に座り続ける。

木金土日
家庭教師。3時間くらい。小6で「九九」,「分数の足し算」から勉強。先生も苦労していた。本当に感謝。中学でもお世話になりましたが,お二人のK先生,本当によく我慢して下さいました。ありがとうございました。

11月,初めての模試。算数。100点中 4 点。

その後,両親や先生方の尽力のおかげで,成績はどんどん上がっていく。

1月に模試の過去問を解く。算数は70点くらいまで上がる。

しかし,世の中はそんなに甘くはない。
もちろん中学受験全部失敗。

でも,4ヶ月間1日も休まず勉強したことが自信に。ここで,はじめて勉強の仕方を,ちょっとだけ知る。

ちょっと脱線

週7日間4ヶ月ぶっ続けで勉強したことが,多くのことを変えるきっかけになった。しかし,ここで「追い込み」が「絶対的に正しい」という思い込みが生まれたのも事実。

今考えると,このときの経験が予備校講師として役立っていると思います。

「黒板に書いてあることが写せない」
➡︎ 写すことに自信がない。(だって,うまく写せないと怒られるかもしれないもん)
➡︎ 写しても意味がない。(だって,ノートの活用の仕方がわからないもん)
  ・
  ・
  ・
「なんて書いてあるかわからないほどに字が薄い,小さい」
➡︎ 願わくば,読み間違えて「丸」になったらいいな。
➡︎ 自信があるようなしっかりとした字で書いて間違えたら恥ずかしいな。
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  ・
  ・

こういう学生の気持ちを理解できない人が多いようですね。あくまで経験上ですが,私のように本当に勉強が苦手な人にとってはよくある精神状態,だと思います。

成績を上げる“行動”とは・・・
ローパフォーマーがミドルパフォーマーになるための“行動”のコツです。

・字は大きく書く。(大きく書くってすごく抵抗あるよね。でも,大事。)

・字を薄く書かない。(濃く書くって勇気いるよね。でも,乗り越えたい。)

・間違えることを恥ずかしがらない。(これが難しい。でも,間違えるのがデフォルト。勉強する前からなぜかみんなが出来る小学校の授業などはほぼすべてCG。「分からない,知らない」これがデフォルト。)

・言い訳できるようになんとなく曖昧な字を書かない。(ちょっとでもオマケしてほしいよね。でも,オマケも自分で勝ち取りにいくべし。)

✔️ ちょっとだけマシになった中学時代

中学生になる。最初のテストで300~400人くらいの中で7番くらい(だったはず)。小学校では最下位の経験を数回している自分からしたら,まぁ,がんばった。

家庭教師の先生に助けられながらも,中1の頃から河合塾に通う。

中1の7月,縁あってイタリアのカラブリア州コゼンツァへ。その後,ドイツにも行く。

イタリア,コゼンツァの山奥の村へ。一面オリーブ畑。地中海性気候を肌で感じる。街というか村。村に来た初めての日本人だったそうな。

“日本ってこうなんだろ?”って言いながら,「ちょんまげ姿のやつが柔道している」不思議なビデオを見せられる。

ドラクエのような村に感動。イタリアに惚れる。

小学校高学年,初めて手にしたCDは4枚組の「世界の名曲アルバム」。エリック・サティやモーリス・ラヴェルに惹かれる。しかし,このイタリア旅行後,映画「アマデウス」の影響もあって(モーツァルトかと思いきや),アントニオ・サルエリを聴くようになる。他にはヴィヴァルディ,パガニーニ,レスピーギ,コレッリなど。

中2はバッハばっかり。「目覚めよ,と呼ぶ声が聞こえ」を聞きながら,よく猫と寝ていた。

その後,なんとなく勉強をしつつ,ちょっとはマトモになり,普通の中学生生活を送る。中3で生徒会長もやる。支えてくれた友人や先生たちに感謝。

このときの盲導犬に関する活動はとてもいい経験になった。NK,ありがとうね。

このときラルフローレンに心酔。

✔️ 中3日曜講座

河合の先生たちに影響を受ける。前島先生,山田先生。感謝です。このころ,尾崎豊に感化される。

断片的にいろいろな思い出が残っている。

前島先生 の講義。ある講のテストゼミの問題文は『アルジャーノンに花束を』。解説で,「今日の夜,NHKで『アルジャーノンに花束を』の舞台が放送されるので,まぁよかったら観てみてください」ということだった。家に帰ったら,ちょうど始まるくらいの時間。私の語彙力では表現しきれないが,自分の中で「勉強」が何かとツナガル感じがした。

これがきっかけで,現代文の問題の最後に出ている「出典」をみては,帰りにその本を買って続きを読んだりするということを始めた。(高校生のときは,英語長文の出典をみたり,教えてもらったりしていた。思い出にあるのは J. D. Salinger「The Catcher in the Rye ライ麦畑でつかまえて」やPhilippe Ariès「L’Enfant et la Vie familiale sous l’ Ancien Regime《子供》の誕生」。ワケわからず読んで,格好だけつけていました)

数回だけだったが,友人ら数人(名前もはっきりと覚えていないが)と千種キャンパスの地下の食堂で感想を言い合ったりしていた。毎週日曜日は,朝から晩までテストゼミ講義の連続だったが,非常に楽しい時間を過ごした。

もしかしたらチャーリイ・ゴードンと自分を重ねていたのかもしれない。結局チャーリーほどにはなれなかったけど。。。

高校受験,模試はすべてA判定。しかし,第一志望に受からず。

なぜなのか。。。数ヶ月後の自己分析。試験になると我を忘れる。いつもの我流に戻ってしまい,習ったことが活かせない。。。練習が足りない。。。

✔️ 恥ずかしい学生時代,しんどい青春

あまりの悔しさに高1で勉強に没頭する。

玉置全人先生の講義を受けて,ただただ感動。師匠,ありがとうね。

96年の広告。

ジェームス・ディーンの写真,「自分を見つけに 河合塾」というフレーズ。この組み合わせに心打たれる。90年代後半には完璧にハマったフレーズ。このときに「コピー」とか「広告」などに興味を持つ。

高校1年生。学年1位を取り続ける。東大を目指そうと決意。
毎晩マイケル・スワンを愛読。

実は,ここからが地獄の始まり。自分にプレッシャーをかけはじめる。

人5倍やって,ちょうど人並み程度。だから,僕の5時間は他の人の1時間。と言い聞かせて,睡眠時間を減らし始める。
河合の夏期講習に通いながら,学校の勉強合宿。さらに駿台の箱根セミナーに行くかどうかも悩んでいた。

高1の夏。出来の悪い自分は,圧倒的な勉強量と勉強法がないとダメだ,と思い込み,勉強法を模索し始める。また,この時期に,自己啓発本などのビジネス書を読み漁る。15,16歳でフランクリン・コビーの手帳(フランクリン・プランナー)をアメリカから(?)取り寄せ,さらに能率手帳を購入。

完全に意識高い系ビジネスマン。

高1から高2にかけて,マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』,フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』,イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』などを読み,いわゆる“精神の官僚化”をゆるく意識。いまの自分の置かれている状況を過激に批判し始める。

一体何だったのか。この時期,いろいろな病気が重なる。マンゴーアレルギーで苦しんだのもこの時。(後日談:このときはマンゴーが原因とは分からず。マンゴーが「うるし科」であることを NY のある病院の ER で知る)

無限に頭デカチになっていき,失恋もあり,さらに「焦り」に拍車がかかる。そして,どんどんとトガっていく。いろいろ本当にごめんなさい。謝り方が分からないほど。

高1,2の夏,高1はロンドンとウィンブルドン,それからミュンヘンを旅行。知り合いがウィンブルドンに住んでいたのがきっかけ。高2は,イギリス・オックスフォードの語学学校に1ヶ月。

この時期,オペラ『椿姫』,「乾杯の歌」に心酔。親のクレジットカードを勝手につかい,ローマ歌劇場の『椿姫』1枚5万円のS席を2枚とる。

引き落としの日まで黙っていた。(良い子はマネしないように。)

オペラは素晴らしかった。(先日,25年ぶりに行きました。コッポラの演出。25年前の演出は誰だったか覚えていませんが,床に敷いた床を写す鏡が印象的でした。どなたかご存知の方,いらっしゃるかしら。タイミングが合えば,大使館にも行けたかも。残念。)

✔️ トガった結果,成績が上がる。もっとやれる。

その後,数学などの遅れを理由に,さらにプレッシャーをかける。食べると眠たくなるから,勉強時間を増やすために食事を拒否。

受験生諸君,睡眠時間を削り始めたら “不合格の兆候” です。ご注意を。

高2,3で激ヤセする。その後,鬱。そして不登校。

それでも僕のことを理解しようとしてくれていた友人たち,先生,周りの人,全員を傷つけ,高校生活を終える。

謝っても謝りきれない。みんな,本当にごめん。

センター間近で交通事故。軽自動車の前方不注意で突っ込んでくる。体は首を痛めたくらいだが,緊張の糸が完全に切れる。

どうせ今のままなら落ちるし,言い訳できる。。。

これが病院のベッドで思ったこと。こうやって自分に言い訳をした。

ギリギリのやる気を持続させるために,好きな科目(英語)ばかり勉強する。罪悪感は薄れるが,科目バランスは崩れる。

センター試験。英語196点(浪人の時も196。本番ではなぜか満点にならない)。他の科目は失敗。

あらゆることを“言い訳”に家に引きこもる。というか,この時期,ほとんど記憶がない。

もちろん大学受験失敗。

浪人。1日10時間を目標に勉強。人生でもっとも規則正しく生活していた時期。

英国は安定して偏差70を超える。

しかし,ここでも教訓が活かせない。得意科目で勝負しなければならないと思い,英語と国語にこだわりすぎる。

また懲りずに自分を追い込む。いろいろ病気が重なる。とくに神経性胃腸炎に苦しむ。受験期,点滴が欠かせない。いくつかの大学に受かるも,やはり東大はダメ。

✔️ 2浪最初の模試,偏差値80を超える…

なぜ本番で結果がでないのか。勉強の意味が見出せなくなる。
自分の能力のなさに嫌気がさす。「自分は『試験』というものに向いていない・・・」

誰にも相談できず,ひたすら1人で悩む。毎晩ひたすら散歩の日々。

Per Amica Silentia Lunae “月の沈黙を味方に” なんとなく “明日” をやり過ごせないだろうか。「“明日” が来なければよいのに」とずっと思っていた。

Tomorrow, Tomorrow, I love you, Tomorrow. You’re always a day away.

さすがに20歳前後の,あらゆる面で拗らせて捻くれていた僕は,アニーのように “明日” を前向きには見られなかった。

余談ですが・・・

アニーのこの歌詞。学生に聞いてみると「歌詞は聞いたことがあるが,意味はよくわかんない」という人が多かった。じつは文法の知識が活きてくるところでもある。

you = tomorrow で,tomorrow「明日」を擬人化して呼びかけている。そして,英語では 数字情報+形容詞 にすると,ten years + old のように,その形容詞の説明になる。だから,・・・・

You are ten yearsold. あなたは10年分+古い。
➡︎ あなたは10歳です。

・You are always a dayaway. あなたはいつも1日分+離れている。
➡︎ あなたはいつも近くにいてくれる。(∵アニーは「明日」を希望として捉えている)

ten years「10年」が a day「1日」に変わり,old「古い」がaway「離れている」に変わっているだけなのです。

月明かりに救われる日々。と同時に,単なる穀潰しであることに罪悪感を覚え,自分を責め始める。

ほんの少しの期間だけだが父親の工場で働き,受験を辞めて働くか悩む。

赤ん坊の頃から知ってくれている会社の従業員のみんなと働く。とてもよい経験だった。

名もなき人たちの変わらぬ日常。

「名もなき」なんて表現はちょっと違う。

みんな,素敵な名前をもっていて,日々を,自分の人生を一生懸命に生きている。耐えている。堪えている。楽しんでいる。缶コーヒーひとつでちょっと笑顔になる。

学歴や学校歴も大事やもしらん。でも,実際に働いて素直に生活する,ということのスッキリさ・・・なんていうんだろう・・・「単純さ」でもない。。。「肩の荷が降りる」という感じ。。。「考えすぎない」という感じ。。。

そういったことを,この時期に知る。(といっても,バイト程度の働きだったが)

初めてのお給料で,ピカソの「花束を持つ手」のポスターを買う。3万だったか。完全に日焼けしてしまったが,まだ持っている)

このとき,小学生の時に家にあった ジョアン・ミロ の たぶん50〜60号(額は80号くらいあった気がする?)(本物だっていうんだから,バブルってのはすごい時代だ)の大きさ(少なくとも当時の自分にはそう感じられた)に影響を強く受けていたことを実感。。。

親友で幼なじみのKちゃんのデッサン姿に惚れる。

精神的に落ち着きたかった。茶道(裏千家)。冬点前までをなんとなくかじる。裏千家の学校に行こうかと考える。

1998年~99年頃,NYに住んでいた友人から,コロンビア大学の American Language Program(ALP)に来ることを勧められ,真剣に検討。部屋も貸してくれる,という話だった。実際にNYに行き,ハーレムのキャンパスまでパンフレットをもらいに行く。NY観光に感動。A列車に乗ってハーレムの雰囲気,もっと感じておくべきだった。

帰国。もうこのとき,受験勉強は一切していなかった。

引きこもっていた。このあたりの数年間はほとんど記憶がない。断片的記憶。

先入観なく接してくれた幼なじみに救われた。Hくん,マジでありがと。本当に心から感謝しています。またナーコロで乾杯しようね。

たしか12月くらいだったか。もう一度浪人したことだし,一応日本の大学を受験してみることに。NYは,大学に行ってみてから学部編入でもいいか,と考えていた。(ところが,9.11のテロで状況が変わってしまった。)

いまさら参考書なんて開く気もなく,なんとなく過去問を解いていた。

で,入試。正直全滅かな?とも思っていた。もしそうなら働けばいいや。そんな気持ちだった。

受けた学部は正確には覚えていないけど,文学部・法学部・商学部だったと思う。
早慶は補欠で不合格。GMARCHや関関同立は合格。

なぜ?勉強していないのに? あ,過去問を解いていたからか。。。このとき,気づかぬうちに変なこだわりを捨てていた。

同志社の試験(法か商?)は覚えている。理由は簡単。問題が的中しまくった。

なぜか同志社は過去問を見ることもせずに試験会場へ。試験が始まってから初めて問題を見る。やけに落ち着いていた。全科目,最初の5分で時間配分,設問から見る。全体から解こうと意識していた(ような記憶)。

国語や社会でびっくり。数年前にテキストで解いたことがある問題が出る。出典や分野が全く同じ。設問もほぼ同じ。。。驚いた。。。30分くらいで解いた。解答速報上ではほぼ満点だった。

受験生のみなさん,ほんとうに復習,大事です。結果的に覚えちゃっていた!というくらい読み込みましょう。

以前は真剣に思っていた。いや,信じていた。信じ切っていた。

先生たちのように前から論理的に,順番通りに,完璧に正解を美しく出さなければならない。設問から内容を予測するのは非本質的。「本質」の定義とは何か?「本質的な解き方」とは何か?どこかに「本質」があるはず。それを突き詰めない限り,たとえ正解が出ても「偶然」。「本質」だけが生み出す「必然」があるはず。

だから,いつも必死に解いていた。いつも深刻に悩んでいた。誰よりも鬼気迫る勢いで。

確かにそういった「本質」もあるのだろう。でも,すべてはバランスだということ。

いろいろ受けたが,当時 The Alfee が好きだったという理由でなんとなく明治学院を受験。こじんまりとした雰囲気が気に入り進学。周りは理解できず。ネオゴシックはとても新鮮に映った。

どのような選択をしようとも,求めれば与えられる。多くの運命的な出会いがあった。

高校時代に覚えた聖句。「神のなさることは,すべて時にかなって美しい」伝道の書3:11

このとき,叔父の影響でデニムに興味を持つ。66も,アメリカで探してくれた1978年製ラルフローレンのGジャン(polo western),大事にしているよ。

✔️ 同じ過ちで苦しむ。何も学んでいなかった?

司法試験合格を目指して勉強する。結果を求めて,また自分を追い込み始める。そして,同じ過ちを繰り返す。ストレスで原因不明の熱がでる。入院。

いわゆる受験勉強に嫌気がさしていたこの頃,ちょこちょこ通っていた内科の先生から「”試験”に向いていないんだよ。やめちゃえば。あははは。」とあっさり。あっけらかんとした先生の言葉に救われる。

✔️ 好きなことを好きなだけ勉強する

そうだ。そうだった。そのはずだった。いったいどこで忘れたのだろう。いや,学んだつもりでいただけ。何度失敗したらわかるのだろうか。もはや人間ではない。いや,これが人間というものか。動物の方がもっと賢く学ぶ。

大学3年。将来のことは考えず,途中でやめていた勉強を再開する。好きなことだけを勉強しようと決意する。

この時期に,高校時代は勉強ばかりで熱狂までには至らなかった「エヴァンゲリオン」と「攻殻機動隊」,「銀河英雄伝説」の凄さを再認識。

大学1年生のとき「黒の衝撃」に感動。ヨウジヤマモトとコムデギャルソンに心酔。フランス文学の内藤先生に憧れる。「人生は捨身だよ」との言葉,一生忘れません。悲劇,喜劇,笑劇。どれも好きだが,この頃はモリエールを読んでいた。

能狂言が好きで,美学・舞踊美学に興味を持つ。当時,バレエではニーナ・アナニアシヴィリ。ジョルジュ・ドンやら,シルヴィ・ギエムやら,ピナ・バウシュやら。この時期はハマっていました。

井上先生のパリ万博,モーリス・ラベルの講義はとても楽しかった。

演劇理論,音楽思想の研究会。東大や芸大の複数の研究会に参加させていただきました。みなさん,ありがとうございました。

同時に,政治社会学(動員史観)にどハマり。畠山先生,感謝です。先生はもうお忘れかと思いますが,先生からの政治学へのお誘い,感激しました。宮台真司,上野千鶴子に驚愕したのもこの時期。美学と悩んだ。

ロシア語は 太田先生 に習う。先生の名誉のために言うが,私が全然勉強しなかっただけです。挫折しただけです。太田先生は素晴らしい先生でした。最後のテストの日にみんなでウォッカを飲んで,宴会になってしまったことは良い思い出です。最近亡くなられたことを知った。先生,ありがとうございました。

そのころ,駿台リンデンでアルバイトしているときの先輩からウイスキーを習う。EAU DE VIE。I先生,感謝です。またご一緒したいです。この時の仲間にいろいろ救われた。みんな,最近会えてないね。すまん。

実家の影響もあり,バイト代以上にお金を稼ぐ必要が生じる。
大学院に行きたかったが,資金不足。仕事を探す。

紆余曲折あり,予備校講師になるか?能楽堂で就職して能楽師になるか?で悩む。
毎日,新聞の求人広告と国立能楽堂のホームページを行ったり来たり。

✔️ 予備校講師として生きる決意

やはり自分の人生の転機になった予備校で働いてみたくなり,高校受験コースの講師になる。(10年くらい前,タバコ部屋にてI先生(日本史)からの「予備校講師も狂言師みたいなもんだ」という言葉,みんなで笑いました)

高校受験コースで「高校受験クラス中1,中2」を担当し,新設の「私立中3アルファコース」を担当。

勉強はダメだが,体を動かして実際に教えるのは得意なのだと気づく。結局は頭脳的習得ではなく,職人的身体的習得が得意なのだと納得し始める。

となれば,身体の限界までやってやると決意。これで失敗すればどうせ「死」しか待っていない。だったら,やりすぎで死んだほうがマシ。尋常じゃないほどに腹を括る。「捨身の行いをするによって…」僕の中でフランス文学の内藤先生と野村萬斎がつながる。

中3アルファ。2年目で教室が満員になり締め切り,クラスの増設。塾生・保護者,周りの教職員に支えられる。心から感謝。一部のお母様たちから,熱烈な応援。差し入れをいただくことも多かった。自信になりました。ここで講師としての心構えや保護者対応などの基本を学ぶ。(大袈裟な言い方だけど。。。)

その後は「美術研究所」,「東大現役進学教室MEPLO」,「高校グリーンコース」,「大学受験科」,「マナビス」を担当。

初めて担当した講座は,基本的には,1年目からほぼ毎回満員御礼。

私なんかを信じて講座を任せてくれた教務担当者,支えてくれた校舎スタッフ,そしてすべての塾生たちに本当に感謝。すべては,私を信じて,私に賭けてくれたおかげ。

自分ももちろん頑張ったが,頑張る環境,正しく評価してくれる環境を整えて与えてくれたことに感謝。感謝しても感謝しきれないほど。

27歳,他の予備校も掛け持ち,睡眠を削り,週7日働く。360日前後働く。

とあるバーに350日くらい通う。マスターからお酒とバーの作法を習う。ここでの出会いも,また素晴らしかった。マスターのMKさん,SNさん,そしてSTさん,本当に感謝です。Nさん,かっこいい飲み方,教わりました。社交ダンサーのカッコよさを実感。Hさん,Rさん,いつも深夜までお付き合い頂き,ありがとうございました。

しかし,働きすぎて(酒の飲み過ぎ,睡眠不足もあって)病気のオンパレード。

夏くらいに帯状疱疹。ただ,単なる発疹と思って放置し,悪化。このときから,ほぼ2ヶ月に1回くらいの割合で,急性気管支炎と蕁麻疹,発疹,過呼吸,肋間神経痛に苦しめられる。

しかし,高校のときのように鬱にはならなかった。このとき,「講師は天職」と思い始める。

ある高校の非常勤講師も経験。このときの生徒たちと先生方には本当に支えられた。私のようないい加減な人間を受け止めてくれた。本当に感謝です。

その後,高校がらみの仕事がいくつかあったけど,意見の食い違いを感じていたせいか,ほとんど記憶にない。まえの経験が良すぎたからだろう。(まだ私も若かった。)

28~29歳 予備校での仕事が忙しくなる。あちらこちらを行ったり来たりしつつ,映像授業のマナビスが始まる。「ここから始める高校英語」(現,「~入試英語」)で映像デビュー。

12月31日と1月1日以外はすべて仕事。この一年は尋常じゃないほど働いた。

✔️ 捨身になって,動きだす

毎週,週2~3回終電を逃して,タクシーで帰宅 or ビジネスホテルに宿泊。お給料がもったいない。東京,芝浦に引っ越す。

ここで,出会った人たちが人生をさらに好転させる。フラーランスの人たちとの素晴らしい出会い。みなさん,ギラギラ感がすごかった(笑)。パワーがありました。ここでも,レストランバーの社長にほぼ毎日貴重な助言を受ける。Yさん,本当に感謝しています。

Uさん,Tさん,もっと丁寧に感謝の念を伝えるべきだったと反省しています。。。

この頃,ヨウジヤマモトとコムデギャルソンがちゃんと買えるようになる。

12月24日の南青山。1人でヨウジヤマモトへ。早くお店を閉める予定のところ,僕1人のために閉店を待ってくれた。はじめてセールではなく正規でファスナースーツを買う。Nさん,ありがとうございました。

叱咤激励してくださった先輩講師の先生方,教職員の方々に感謝。繰り返しですが,頑張ったことが評価される環境があるというのは,本当に奇跡的なことだと思います。

またまた,バーのマスターに支えられる。やはり僕の人生にはバーテンダーが必要なようです。このバーで,僕の人生を最高に加速させる出会いが押し寄せる。

30歳代は,新たな仕事の方向性,新しい方々との出会い(とくに地方講演)などもありました。悩み多き10年でもありましたが,それと同時にまた飛躍する10年ともなりました。

細かい話はまた別の機会に。

✔️ 30代になってから驚いたこと。

・(怪しい感じの人から)俳優にスカウトされる。
・やくみつるさんと勘違いされ,サインを求められる。(別の場所では,笑い飯の西田さんに間違われた)
・(半分,冗談だったと思いますが)芸人にスカウトされる。
・NHKドキュメンタリー番組(Yohji Yamamoto)制作に関して意見を求められる。
・ヨウジヤマモトのパリコレに行く。

びっくりするようなことがいろいろありました。普通に生活していたら,この人たちには会えないだろうな,という方々にも会えました。いつも刺激をもらっています。みなさん,いつもありがとうございます。

こんなふうに 20~30年くらいかけて「自分で自分を実験」してきました。

実験から得られたことは… たとえ何回失敗しても,その都度それなりに向き合っていくことをやめなければ,暫定的かもしれないけれど,なにかしらの解決策が見えてくるはず。

不思議なことに,そのとき,そのときで,周りに応援してくれる人が現れます。

私の経験でしかありませんが… 応援する人は探しても見つからない。自分が全力でやっているうちに,気づくと周りにいるって感じです。

有難いことに,みなさんに評価をしていただける講師になりました。しかし,まだまだありえないほどに勉強不足。さらに勉強して,皆さんにとって価値あるものを提供していきたいと思います。

これからもまだまだ頑張りますので,よろしくお願いいたします。

最後までお読みいただきまして,ありがとうございました。

本当はあと6万字 くらい書きたいのですが,それはまた別の機会に。